アボリショニスト・プロジェクト by デイヴィッド・ピアース

THE ABOLITIONIST PROJECT

はじめに

以下は,デイヴィッド・ピアース(David Pearce)によるTHE ABOLITIONIST PROJECTの全訳である。


INTRODUCTION

これは、苦しみと、それをどう取り除くかについての話である。

アボリショニスト(根絶論者)プロジェクトは、どのようにバイオテクノロジーが生物世界から苦しみを根絶するかを概説している。

我々の子孫は、今日のピークの経験よりも、さらに何オーダーも豊かな遺伝的にプログラムされたウェルビーイングの状態を享受しているだろう。


第一に、何らかの不愉快な経験―心理的痛みだけでなく身体的痛みも―の生物学的基質を根絶することが技術的に実現可能である理由を概説する。

第二に、あるものが倫理的功利主義者であるか否かにかかわらず、アボリショニスト・プロジェクトが最優先されるべき道徳的切迫性を持つことについて議論する。

第三に、バイオテクノロジーの革命は、例え望まれるほど早くは起こらないにしても、やがては実現すると言える理由を議論する。


1. なぜそれが技術的に可能なのか

残念ながら、社会経済改革、指数関数的な経済成長、または通常の意味での技術進歩、あるいは世界の病を解決するための伝統的な処方では、少なくともそれ自体では、苦しみを根絶することはできない。 外部環境を改善することはすばらしいことであり、重要ではあるが、このような改善では、ヘドニックトレッドミルを、遺伝的に制約された天井を超えるように再調整することはできない。 双子の研究では、生涯を通じて、その周りをゆらぐことになる、[部分的に]遺伝性のウェルビーイングのセットポイントがあることが確証されている。 このセットポイントは各個人によって異なる。 [不制御なストレスを長期的にかけることで、個人のヘドニックセットポイントを下げることは可能である。 しかしこの再設定さえも、聞こえるほど簡単ではない。 自殺率は通常戦時下に下降する。 そして研究 [1] は、四肢性麻痺を誘発する事故に会った6ヵ月後には、そのカタストロフィックな事象の前と比べ、より不幸でもなく、より不幸でなくもないことを示唆している]。 残念ながら、右のユートピアでも左のユートピアでも、自由市場でも社会主義でも、宗教的でも世俗的でも、未来的なハイテクでも自給自足でも、理想的な社会を実現しても、この生物学的な天井を越えることは出来ない。 永遠の若さ、無限の物質的豊かさ、形態的自由、スーパーインテリジェンス、没入型VR、分子ナノテクノロジーなど、伝統的な未来派が求めているすべてが提供されても、報酬経路の豊かさ無くして、主観的な生活の質が平均し、狩猟採集者の祖先―あるいは今日のニューギニア部族―を著しく越えるという根拠は何もない。 洗練されたニューロスキャンをなくしてこれを証明することは困難だが、心理的苦痛の客観的指標、例えば自殺率はそれを裏付ける。 未改良の人間は、恐ろしい苦しみから、悲しみ、不安、嫉妬、実存的な不安などの失望や欲求不満に至るまで、ダーウィン的な感情のスペクトルの餌食となったままである。 彼らの生物的特質(biology)は「人間であることの証」の一部なのである。 主観的に不快な意識状態が存在するのは、それが遺伝的に適応的だからである。我々の各中心的感情は、進化的過去に、明確なシグナルの役割を持っていた。 それらは、先祖の環境における遺伝子の包括的適応度を高める行動を促進する傾向にあった。

よって、外部環境だけを操作しても、苦しみや不快感をなくすことはできない。技術的には何が可能だろうか?

社会学的妥当性の高い順に、3つのシナリオを挙げる:

a) ワイヤヘッディング
b) ユートピア的デザイナードラッグ
c) 遺伝子工学
と、―私が焦点を置きたい―まもなく起こりそうなデザイナーベイビーによる生殖革命

a)ワイヤヘッディングは、埋め込まれた電極を介して脳の快楽中枢 [2] を直接刺激することを想像してもらえばいい。 頭蓋内の自己刺激は、生理学的または主観的な耐性を示さない。 すなわち、それは2分後でも2日後でも同じように報酬を与える。 ワイヤヘッディングは他人に危害を与えることもない。 生態的フットプリントも小さく、心理的および肉体的痛みを排除し、そしておそらく、セックスをするよりも、人間の尊厳に対し侮辱的でもない。 確かに、生涯のワイヤヘッディングは、ほんの一部の、深刻な鬱状態の人にのみ、魅力的な見通しに思われるだろう。 しかし、それを採用することへの技術的な異論はどんなものがあるだろうか?

ワイヤヘッディングは進化的に安定な解決策ではない。 その広範な採用に対しては淘汰圧が生じるだろう。 ワイヤヘッディングは養育行為を促進しないのだ。ヒトもヒトでないものも子供のワイヤヘッドを育てたいと思わない。 ワイヤヘッディングや、その等価物による一様で無差別な至福は、少なくともそれがグローバルに採用されるなら、人類の実験を効果的に終焉させるだろう。 快楽中枢への直接的な神経刺激は、環境刺激に対する情報感受性を破壊してしまう。 よって我々がスマートになりたいと仮定するならある選択肢がある。 知的エージェントは、今日の生涯にわたる鬱の特徴であるイルビーイングの状態に基づいた動機づけ構造を持つことができる。または知的エージェントは、現在の典型的な喜びと苦痛の混合物を持つこともできる。あるいは我々は、完全に[適応的な]脳の至福の状態に基づいた、心の情報豊かな経済を持つことも可能である。こ れを私が議論するつもりである。

実際には、ワイヤヘッディングをこのように却下するのは時期尚早かもしれない。 遠い未来においては、我々は一様なオルガスムの至福を楽しんでいる間、無機的なスーパーコンピュータや、人工器官、あるいはロボットなどに不快なものや平凡なものをすべて押し付けるということを排除することはできない。あるいは、オルガスムの至福ではなくとも、それより改善しようのないくらい理想的な状態の別の族でもありえる。 しかし、それは投機的な話だ。我々の究極の目的地が何であれ、少なくとも我々がやっていることの完全な意味を理解するまで、超幸福(superhappiness)と超知性(superintelligence)の両方を目指す方が賢明だろう。 超幸福を最大化することには、苦しみを根絶することと同様に道徳的切迫性はない。

[無機的なスーパーコンピュータや、人工器官、あるいはロボットなどは、機能的な設計によって有害な刺激を避けたり反応したりすることを可能にしても、主観的な認知的痛みを経験しない、あるいは経験する必要はないことを前提としていることを指摘しておくことには価値がある。PCの電源を切っても倫理的に含意されるものはなく、シリコンロボットは損傷して痛みを感じることはなくとも、腐食性の酸を避けるようにプログラムすることができるように、無機物の苦しみが存在しないことについては比較的議論の余地はない。古典的なフォンノイマン的設計を持つ計算システムが、興味深いことに意識を持つことがあるか、ということには議論の余地がある。私はそれには懐疑的だ。しかしいずれにしても、苦痛の主観的な質感が、有害な刺激を避けることができるいかなるシステムにとっても、機能的に不可欠なものであると主張しない限り、機能を押しつけるという選択には影響はしない。]

b)苦しみを根絶するための第2の技術的選択肢は、未来的なデザイナードラッグである。成熟したポストゲノム医学の時代には、受け入れがたい副作用がなく、生涯にわたり、機能性の高いウェルビーイングを提供する本当に理想的な快楽ドラッグを合理的にデザインすることは可能になるだろうか?ここでの「理想的な快楽ドラッグ」は単に簡略化した言い方に過ぎない。そのようなドラッグは、通常の一次元的な非道徳的な意味でのレクリエーション的な多幸感ではなく、原理的には大脳敵的、感情的、審美的そして精神的幸福を包含することができる。
我々はここで、単純に脳の負のフィードバックメカニズムを活性化する、レクリエーション的な多幸感について話しているわけではない。 またBrave New Worldのような、浅い麻薬的な満足感や、制御できない興奮や、重要な洞察力の喪失、誇大さやアイデアの飛躍を伴う、多幸性躁病を誘発するドラッグについて話しているのでもない。我々は、持続可能な基底に基づく崇高なウェルビーイングを提供する本当のワンダードラッグを開発し、すべてのものにハイクオリティな生活を保証するためにヘドニックトレッドミルを再設定することはできるだろうか?

多くの人々が、「ドラッグ」という言葉にしり込みするが、今日の有害なストリートドラッグと、その魅力的でない医学的カウンターパートを考えれば、それも理解できることだ。 しかし、我々の社会では、学者や知識人でさえも、愚かなプロトタイプドラッグである、エチルアルコールを当たり前に摂取している。人を一時的に幸福かつ愚かにするドラッグを飲むことが社会的に受け入れられているならば、永久的に人をより幸福かつ賢くするためのドラッグを合理的にデザインしない手があるだろうか? おそらく、乱用の可能性を制限するために、理想的などんなドラッグも―制限的だが重要な意味で―ニコチンのようなものであることを望まれるかもしれない。喫煙者の脳は、最適基準がうまく調整されており、制御不能な摂取量の増加もない。

もちろん、ドラッグベースの解決策にはあらゆる種の落とし穴がある。技術的には、私はこれらの落とし穴を克服することができると考えているが、ここでそれを展開することは試みない。 しかし、それよりも深刻な問題がある。 進化によって遺された自然な意識の状態には、根本的に間違ったもの、あるいは少なくとも根本的に不十分なものでもない限り、我々はそれを変化させようとは思わないだろう。 それが不快ではない時でさえ、我々が最高の経験と呼ぶものに比べれば、日常の意識は平凡なものだ。 日常の意識は、おそらくアフリカのサバンナにいるとき、我々の遺伝子が、より多くのコピーを残すのに役立った意味で適応的だっただろう。 しかし、なぜそれを無制限にデフォルト状態にしておくのだろうか?文字通り、遺伝コードを修復することで、人間の本質を変えてみるのはどうだろうか?

この場合も、薬理学的解決策は却下するには早すぎるかもしれない。 恐らく、ユートピア的デザイナードラッグは、容易に常時細かい可逆な意識制御するために役立つかもしれない。 デザイナードラッグは、全く異なる意識的精神の状態を探索するための不可欠なツールになるだろうと考えている。 しかし、絶え間ない自己投薬を必要とすることなく、心理的な超健康(superhealth)の遺伝的性質を持って生まれる方が良のではないだろうか? 最も熱心な根絶派さえ、すべての子供に生まれた瞬間からドラッグのカクテルを提供することを提案するだろか? そして、残りの人生を通してそのようなドラッグカクテルを摂取するというのだろうか?


c)したがって、第3に、体細胞および生殖細胞の両方の治療を含む遺伝的解決法がある。

今日、程度に違いはあれど、常に抑うつ的、あるいは気分変調的な人々が少数いるという状況がある。 一卵性および二卵性双生児の研究では、鬱病は遺伝的要因が大きいことが確認されている。反対に、気質的に楽観的な人も存在する。 楽観的な者をさらに越して、精神科医が発揚者と呼ぶ人たちがいる。 発揚者は躁病や双極性とは違う。現代の基準からすると、常に極めて幸福で、他者より幸福である 発揚者は、自分の環境に「適切に」応答し適応する。間違いなく、彼らは特質的にエネルギッシュであり、生産的で創造的である。 彼らは至福でこそあれ、「恍惚状態」ではない。

さて、文明全体として、遺伝的に発揚になることを選択―完全に適応的なウェルビーイングの状態によって駆動される動機付けシステムを採用―した場合、どうなるだろうか? よりラディカルに、ヘドニックトーンの遺伝的基盤が理解されるにつれて、発揚性を促進する余剰的な遺伝子のコピー/対立遺伝子と調整的プロモーターの組を加え、恒常性やヘドニックトレッドミルを廃止するのではなく、ヘドニックセットポイントをはるかに高いレベルにシフトするのはどうだろうか?

ここで3つのポイントがある:
第一に、この遺伝的再設定は別の一様性を是認するように思われる。 より幸せな人、特にドーパミン伝達過剰性の人は、典型的には抑鬱的な人々よりも、より広い幅の潜在的な報酬刺激に反応することを想起しておく価値はある。 これにより、彼らは探索的な振る舞いを示す。拡張された個人とポストヒューマン社会両方にとって、マンネリ化する可能性を低下させる。

第二に、普遍的な発揚化は巨大な実験のように聞こえるかもしれない。もちろんある意味ではその通りだ。 しかし、すべての生殖は実験である。 我々は遺伝的ルーレットを回し、遺伝子をシャッフルして遺伝的サイコロを振る。 我々の多くは、「優生学」という言葉にたじろぐ。 だがそれは、我々が将来の相手を選ぶとき、ぞんざいで無力ながら、効果的に行っていることなのだ。 違いは、将来の親たちは、今後数十年の間に生殖に関する決定において、より合理的かつ責任ある行動が可能になっていくだろうということだ。 着床前の遺伝子スクリーニングは日常的になるだろう。人工子宮は我々を産道の制約から解放するだろう。そして生殖医療の革命は、古いダーウィンの宝くじと置き換わり始まるだろう。 問題は、生殖革命が起こるかどうかではなく、我々はどんな種類の存在を、そしてどんな種類の意識を創り出したいのかということだ。

第三に、この生殖革命が西洋の豊かなエリートの特権になるのではないか?というものだ。おそらく長くは続かないだろう。 例えば、携帯電話の導入と、世界中での普及の間の短い時間差と、ラジオ導入から世界規模での普及までかかった50年や、テレビの導入から普及までかかった20年というラグを比較してみるといい。 新たなテクノロジーの最初の導入から、グローバルな需要までの間のタイムラグは急速に縮小している。もちろん、価格もである。

いずれにしても、ヘドニックトレッドミルを完全に廃絶してしまうのではなく、遺伝的に再設定する利点の1つは、少なくとも近い将来においては、痛み、不安、罪悪感、鬱の機能的類似性が、それを理解するにつれて、その生の感覚を伴うことなく保存できることだ。 間違いなく進歩の原動力である不満の機能的な類似感覚を保持することで、多幸性躁病には欠けている識別力と重要な洞察力を保持することができる。 ヘドニックトーンが大幅に強化され、快楽中枢が物理的かつ機能的に増幅されている場合でも、原理的には既存の嗜好構造の多くを維持することは可能だ。 ベートーヴェンよりモーツァルトが好きとか、哲学よりお遊戯の方が好きなど、ヘドニックトーンが非常に豊かにされても、この嗜好順位を維持することは出来る。

個人的には、我々の嗜好構造は根本的に変え、[専門用語の使用を許してもらいたいが]「感情の再脳分化(re-encephalisation of emotion)」を追求すべきだと考えている。 自然選択による進化には、我々の遺伝子の利益のために、自身にとっても他者にとっても害を与える、あらゆる機能不全の選好を形成する傾向を強く残してきた。 チンギスハンを思い出してほしい。彼はこう述べたとされている:「最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その女と妻達を抱きしめることにある」

学術の世界はそこまで悪いものではないと言われるが、大学の生活でも、競争的な地位の追求、最優位者の支配的儀礼、多くの敗者をもたらすゼロサムゲームというあか抜けた野蛮さを形成している。 我々の好みの内のあまりに多くの部分が、祖先の環境で遺伝的に適応的であった、質の悪い行動や心の状態を反映している。 その代わりとして、自身の破損したコードを書き直した方が良いのではないだろうか? ここでは、遺伝的にヘドニックトーンを高めることに焦点を当ててきた。 しかし、感情の生物学に精通することは、例えば、ミラーニューロンを機能的に増幅し、オキシトシン放出の持続的増加をエンジニアリングすることで共感の能力を拡大し、信頼と社会性を促進することもできるようになることを意味している。 我々は同様に、例えば精神性、美意識、ユーモアセンスなどの分子的特徴を特定し、その心理学的機構を調整して「過剰発現」させることもできる。 情報理論的観点からは、適応的で柔軟でインテリジェントな、世界に対する応答にとって決定的に重要なのは、ヘドニックスケールの絶対点ではなく、差異に対して情報的に敏感であるということだ。 情報理論家は情報を「差異を生む差異」と単純に定義することもある。

しかし、改めて強調すると、この感情の再脳分化はオプションである。 すべての知覚のウェルビーイングをエンジニアリングし、全てではなくとも、ほとんどの既存の嗜好構造を保持することは技術的に実現可能である。 ここで提示された苦しみを根絶するための3つの技術的選択―ワイヤーヘッディング、デザイナードラッグ、そして遺伝子工学―は互いに排他的ではない。 これらは網羅的だろうか? 私は他に実行可能なオプションを知らない。あるトランスヒューマニストたちは、いつかは我々は自分たちをスキャンしてデジタル化し、無機的コンピュータにアップロードして再プログラミングできるようになると信じている。 まあ、おそらく、私は懐疑的だ。 いずれにせよこの提案は、いわゆる破壊的なアップロード―私がここで検討するつもりさえないホロコースト的オプション―を受け入れない限り、既存の有機生物の苦しみを解決するものではない。


2. なぜそれが実現されるべきなのか

あと数世紀の間に、我々は、感情を支配する神のごとき力を手に入れるとしよう。 また、不快な経験の伝達機能は、ここで議論したように、再設定や、無機的な人工器官や生体インプラントあるいは無機的コンピュータへ不快なものや平凡なものは押し付けることで置き換えられるか、あるいは嫉妬のような感情はおそらく完全に消去できるようになるとする。 なぜ我々はすべて根絶主義者にならなければならないのだろうか?

古典的功利主義者なら、アボリショニスト・プロジェクトは次のように言える。 つまりそれはベンサム+バイオテクノロジーである。苦しみの根絶を支持するために、古典的な功利主義者である必要はない。 しかし、すべての古典的な功利主義者は、アボリショニスト・プロジェクトを受け入れるべきである。 ベンサムは可能な限りの社会的かつ立法的な改革を支持した。 だが彼が研究をしたのは、バイオテクノロジーや遺伝子治療の時代の訪れる前であった。

もし科学的に啓蒙された仏教徒であれば、アボリショニスト・プロジェクトも自ずと後に続くだろう。 世界中の宗教の中でも唯一仏教徒は、生物世界の苦しみに優先して焦点を当てている。 仏教徒は、遺伝子工学より、八正道の方が、ニルヴァーナへのより確実なルートを提供すると考えるかもしれない。 しかし原理的には、仏教徒は、それが機能する限りバイオテクノロジーに反対することは難しい。 仏教徒は欲望の消滅によって苦しみを解消することに焦点を当てるが、この消滅は技術的にはオプションであり、停滞した社会を導く可能性があることは注目に値する。 その代わりに、苦しみを根絶し、かつあらゆる形の欲望を持ち続けることが可能となるのだ。

イスラム教徒ユダヤ-キリスト教徒を説得することはより困難である。 しかし、信者は―経験的な証拠におかしなところがあるにもかかわらず―アラーや神は限りなく同情的で慈悲深いと主張している。 もし必滅の存在ごときが、すべての知覚的存在のウェルビーイングを思い描くことができるなら、神が彼の慈悲の範囲において、より制限的であると主張することは、冒涜的なことにも思えるだろう。

現代の哲学者のほとんどは古典的な功利主義者でも、仏教徒でも有神論者もない。 なぜ、例えば倫理多元主義者までも、アボリショニスト・プロジェクトを真剣に考慮しなければならないのだろうか?
ここでシェイクスピアを引用したい

哲学者でさえ、歯痛を我慢できるものはいなかった」
[空騒ぎ、第五場、第一幕(レオナートの語り)]

極度の身体的痛みに襲われたとき、人はその恐ろしさにいつも衝撃を受ける。
孤独、拒絶、実存的不安、嘆き、不安、鬱などの純粋な「心理的」痛みは、極度の身体的痛みほど残忍なものにはなりえないと考える誘惑に駆られる。 しかし、世界で毎年80万人以上の人々が自分で命を絶つのは、主に心理的苦痛が理由である。他のもの―偉大な芸術、友情、社会正義、ユーモアのセンス、人格の向上、奨学金など―に価値がないわけではない。 しかし、激しい身体的苦痛、あるいは心理的苦痛が―自分の人生にであれ、愛する誰かの一生であれ―侵入してきたとき、我々はこの激しい痛みこそが、迅速な優先性と緊急性を持つものだと認識するのである。 あなたが扉に手を挟んで悶えているときに、人生のより良い側面を思い出せ、など誰かが言っても軽くあしらうだろう。 恋愛で不幸な目にあって打ちひしがれているとき、軽々しく外は美しい日であるなどと指摘してほしいとは思わないだろう。

いいだろう、確かに極端な痛みや心理的苦痛は、それが続く間は、人生の他の、問題を脇にやる緊急性と優先性がある。 しかしだから何だというのだ?悲惨なことが過ぎ去ったら、前と同じような生活に戻ればいいだけではないか? 自然科学は、「どこからでもない視点」という、観念的な神の目を目指している。物理学は、他のものより特権的な意味をもつ、特定のここでの今というものは存在せず、すべて等しく現実であることを教えてくれる。 科学とテクノロジーはまもなく、このような神のごとき視点に見合う、生物世界全体を見据えた神のごとき力を我々に与えようとしている。 私は、我々の苦痛と同様の苦しみを経験している知覚ある存在がいる限り、その苦痛は自分の痛みや愛する人の痛みと同じ優先度と緊急性で取り組まなければならないと主張する。 伴う力によって、神のごとき力は神のごとき責任を引き連れる。 したがって、例えば、200年前の苦しみの存在も当然恐ろしいものであっただろう。 しかし、そのような苦しみを有意味な形で「不道徳」と呼べるかどうかは明らかではない。 なぜなら、それについて成しえることはそう多くはなかったからだ。しかしバイオテクノロジーのおかげで、今や、あるいは間もなく、その術が得られる。 次の数世紀の間に、あらゆる種類の苦しみは、オプションになるだろう。

あなたが古典的な倫理的功利主義者でないなら、単に超幸福を最大限にしようとするのではなく、ヘドニックトレッドミルを再設定することの利点は、我々の既存の嗜好構造の少なくとも認識可能な子孫を保持することだ。 ヘドニックトレッドミルの再設定は、既存の価値スキームと調和させることができるのだ。 したがって、適切な名前を与えられていない「選好功利主義者」とさえも調和できる。 感情の制御ができるということは、既にある人生における取り組みを、より効果的に追求することが可能になることを意味している。 では、苦しみが持つと言われる、人格形成機能についてはどうだろうか? 「私を押し潰さないものは、私をより強くする」とニーチェも述べている。だがこの心配は見当違いだと思われる。 他のものは等価であるなら、ヘドニックトーンを増強することは、動機づけを強化し、心理的によりたくましくする。 対照的に、持続的な落ち込みは、学習による無力感と行動的な絶望の兆候を導く。

私は、すべての価値は単なる意見の問題であり、論理的に 「である(is)」から 「であるべき(should)」を導くことはできないと主張する、価値ニヒリスト、主観主義者あるいは倫理懐疑主義者を明示的に扱ってこなかった。
では、私は、自分の手が熱いコンロの上にあるために、自分自身が苦しんでいることに気づいたとしよう。 その苦しみは、たとえ私の、手を撤回しなければならないという確信が論理的推論の正式な規範に従ったものではなくとも、本質的な動機づけであることに変わりない。
もし科学的な世界像を真剣に受け入れるなら、ここでの今や、私というものに、存在論的に特別なもの、あるいは特権的は存在しないことになる。 自己中心的な錯覚は、利己的なDNAによってエンジニアリングされた、視点のトリックでしかない。
苦しむことが私にとって間違っているのなら、それはどこの誰にとっても間違っていることになる。


3. なぜそれは実現されるのか

わかった。それは技術的に実現可能であり、苦しみのない世界は素晴らしいだろう。本格的なパラダイスエンジニアリングはなお素晴らしい。しかし、改めて、だから何だというのだ?一辺1000mのチェダーチーズの立方体を作ることだって技術的には可能だ。なぜ痛みのない世界が実現されるというのだ?それは単なる希望的思考ではないのか?おそらく、我々は苦しみの生物的性質を永遠に保持することを選択するだろう。

ここでの反論は、アボリショニスト・プロジェクトに同調的であるかどうかにかかわらず、我々はデザイナーベイビーの生殖革命に向かっているということだ。将来の親たちは、すぐに将来の子どもの特性を選択するようになるだろう。我々はポストダーウィン主義的移行の前夜にいるのだ。これは、淘汰圧が厳しくなくなるという意味ではなく、進化はもはや「盲目的」で「ランダム」なものではなくなるという意味である。自然淘汰はなくなり、非自然淘汰が始まるのだ。我々は、将来の子孫の遺伝子構造を選択し、結果を予期して対立遺伝子や対立遺伝子の組み合わせを選択してデザインするようになるだろう。祖先の環境で適応的であった意地の悪い対立遺伝子や対立遺伝子の組み合わせに対する淘汰圧が生じるのである。

残念ながらこれは厳密な議論ではないが、将来の子どもたちの気分の遺伝的ダイアル設定(ヘドニックセットポイント)を選択しているところを想像してみてほしい。どのような設定を選ぶだろうか?生涯続く超幸福の状態は望まないかもしれないが、圧倒的に多くの親は、間違いなく幸せな子供を選びたいと思うだろう。まず第一に、そのような子の方が育てるのも楽しい。ほとんどの文化のほとんどの両親は、子供たちを幸せにしたいと考えているだろうと心から思っている。子供については、彼らの幸福だけを気にかけていると言う親には懐疑的かもしれない。多くの親は非常に野心的である。しかし、他のことが等価であれば、幸福は成功の兆候になる。おそらくこれは、我々自身の幸福だけでなく、子供たちの幸福まで大切にする究極的な進化的理由の起源だろう。

もちろん、親の選択の議論は決定的ではない。 特に、準不滅な年を取らないものたちによる人口膨張により、有限な物理的空間で無限に生殖することはできなくなるため、ラディカルなアンチエイジングテクノロジーによって、生殖の決断に関するより厳しい積極的な全体的統制が強いられる前に、どれだけの世代が自由に生殖可能であるかは明確でない。しかし、たとえ生殖決定の中央集権化が標準となり、生殖そのものが稀になるとしても、原始的なダーウィン的遺伝子型に反する淘汰圧はおそらく激しくなるだろう。したがって、一体どのような未来の社会形態が、うつ病や不安障害の素因や、拡張されていない意識の「通常の」病理さえをも、事前に理解しながら生み出すことを許容するのか想像するのは難しい。


ヒト以外の動物たち

これまで私は1つの種の苦しみにのみ焦点を当ててきた。アボリショニスト・プロジェクトのこの制限は偏狭なものである。しかし、我々のヒト中心主義は根深いものである。他の種に属するものたちを、狩猟し、殺害し、搾取することは、先祖の環境において遺伝子の包括的適応度を増加させた。[ここは我々はボノボよりもチンパンジーに似ている。]つまり、例えば近親相姦のタブーとは違って、我々はヒトでない動物たちを、例えば狩りや搾取の対象とすることを悪だと判断する、生得的性質を持っていない。我々と数億年前に共通の祖先を共有していたアイリーン・ペッパーバーグ(Irene Pepperberg)のオウムは、3歳児程度の精神年齢を有していたそうだ。しかし、いわゆるスポーツマンが楽しみのために鳥を撃ち殺すのは未だ合法である。スポーツマンが我々自身の種の乳幼児を楽しみのために撃ち殺したら、サイコパスの犯罪者と判断され、収監されるだろう。

よって、対照的なものが存在している:ニュースメディアの主要な話題には、ヒトの児童虐待やネグレクト、幼児の誘拐、見捨てられたルーマニアの孤児の悲惨さなどが取り上げられることが多い。我々が最も嫌悪感を抱く人物は、子供を対象にする虐待者や殺人犯である。しかし、我々はそれを食べるために、他の知覚ある存在の産業化された大量殺戮に日常的に金を払っている。我々が工場で飼育し殺すヒト以外の動物たちは、機能的に、感情的に、知的に―そして決定的なことに、彼らの苦しむ能力について―ヒトの乳児と同等の存在であるという証拠が豊富にあるにもかかわらず、我々それでも肉を食べるのである。

観念的な神の視点から見れば、私は自分の種のメンバーについて配慮するのと同じように、機能的に同等なヒトでない動物への虐待についても、倫理的に注意を払うべきだと主張する―ブタの虐待や殺害について、ヒトの幼児の虐待や殺害と同様に注意を向けるべきなのだ。これはヒトの道徳的直観に反するが、我々の道徳的な直観は単純に信用できない。 それらは我々のヒト中心主義的バイアスを反映している―これは単に道徳的な制限だけではなく、知的制限や知覚的な制限にもなっている。 黒人と白人、自由人と奴隷、男性と女性、ユダヤ教徒と異教徒、同性愛者と異性愛者の間に違いがないという以上に、ヒトとヒト以外の動物の間にも違いがないと言うわけではない。 だが質問はむしろ、それらは道徳的に適切な違いなのか?ということである。これは重要なことである。 なぜなら、知覚を持つ存在の間にある、実在はするが道徳的に不適切な差異に固執することは、道徳的に破滅的な結果をもたらしうるからである。 [例えば、アリストテレスがどのように奴隷制を擁護したかを思い出してほしい。 なぜ彼はそこまで盲目になりえたのだろう?]我々の道徳的な直感は遺伝子の自己利益によって毒されている―それらは公正な神の目で見るようにデザインされてはいなかった。 しかし、知性が増すごとに、共感のための認知能力も向上し、潜在的にはより拡大された思いやりの輪がもたらされる。 おそらく我々の超知性的/超共感的な子孫は、ヒト以外の動物の虐待も、我々が児童虐待を恐ろしい倒錯行為であるとみなすのに比べて、よりおぞましいものではないとは、みなさなくなるだろう。

我々は互いに食い合うことをやめないことはまちがいないのではないか?我々の私欲的バイアスは強すぎる。 我々は肉の味があまりにも好きだ。 グローバル・ビーガニズムという考え方はただのユートピア的な夢ではないだろうか? おそらくそうだろう。 しかし、数十年の間に、遺伝子工学的による食品の出現は、いかなる殺害も残酷行為もなしに、今日手に入れられるどんなものより美味しい「肉」を食べることが可能になることを意味している。 店頭に並ぶ前の試食として、2007年6月にNorwegian University of Life Sciencesで開催されたワークショップで、In Vitro Meat Consortiumが開始された。 重要なことに、単一の幹細胞から肉を栽培することは、際限なく拡張されるだろう:そのグローバルな大量消費は、無傷なヒトでない動物を使用するよりも安価になりうる。 したがって、近い将来まだ現金や市場経済が維持されていると仮定すると、安価で美味しい人工食品は、仲間の動物たちの工場畜産と大量殺戮に取って代わる可能性が高い。

懐疑的に思うものもいるかもしれない。殺されたヒトでない動物の肉より安くて美味しくても、ほとんどの人がグルメな人工食品を本当に食べようとするだろか?と。 もし人工食品が適切に販売されていると仮定できるなら、yesだ。我々が、死んだ動物の肉塊よりも、人工肉の味の方が好きであると判明した場合、クルエルティフリーな食生活の道徳的な議論は、現在よりもはるかに切実なものに思えてくるだろう。

しかし、我々がグローバルなビーガニズムを実現したとしても、間違いなく自然界には依然としてひどい残酷さが残るのではないか? 野生動物のドキュメンタリーは生きている世界を非常にバンビ化(穏健化)して伝えている。ヒト以外の動物が渇きや飢えや、捕食動物によってゆっくりと窒息させられ生きたまま食われるシーンを30分流して、TV番組として良いものは出来ないからだ。そして、食物連鎖は間違いなく必要なのだろうか? 自然は残酷である。しかし、個体数の爆発とマルサス的カタストロフィの苦痛のために、捕食者は常に不可欠なのだろうか?

そうではない。 われわれが望むなら、知的エージェントは、複数種に有効な蓄積的な避妊薬を使用して、地球の生態系を再設計し、脊椎動物のゲノムを書き換え、残りの自然界の苦しみを取り除くことが可能になる。 ヒトでない動物の場合、解放は必要はない。 彼らは世話が必要なのだ。 我々には、人間の赤ん坊や幼児、老人や精神的に障害のある人たちと同様に、世話をする義務を負っている。 この展望は遠いものに聞こえるかもしれない。 しかし、生息地の破壊は、今世紀後半に自然のまま残されているものはすべて、我々の野生動物公園であることを意味している。 我々は怯える生きたげっ歯類を、動物園のヘビに餌として与えないように、それが野蛮であると認識しながら、野生動物公園では「自然」だという理由で、本当に残虐行為を許容し続けるつもりだろうか?

地球最後のフロンティアは海だ。 直感的には、思いやりのある生態系を管理することはあまりに複雑に思えるかもしれない。 しかし、コンピュータパワーとナノロボット技術の指数関数的な成長は、理論的には海洋生態系も包括的に再エンジニアリングできることを意味している。 現在、このようなリエンジニアリングはまだ不可能であり、次の数十年の間にもこのタスクは計算上は実行可能でも、挑戦的なものになる。 だが最終的には技術的に些細なことになるだろう。 すると問題は、我々は実際にそれを行うのか?我々はそれを行うべきか、それとも現在のダーウィン的状態を保持すべきだろうか?である。 これについては、我々は明らかに投機的な領域にある。 しかし、弱者への慈悲原理と呼ばれるものに訴えることもできるかもしれない。 超知性が超越性を伴うという議論の余地がある主張とは異なり、弱者への慈悲原理は、我々の技術的および認知的に進んだ子孫が、今より道徳的に進歩しているだろうことは前提にしていない。

この原理がどのように適用されるか具体例を挙げてみよう。 今日、フリーレンジ卵と工場生産された卵を購入する選択肢が示された場合、ほとんどのノンビーガンの消費者はフリーレンジの卵を選ぶだろう。 バタリーケージで飼育された卵が1ペニー安かったとしても、ほとんどの人は「クルエルティフリー」なオプションを選ぶだろう。 いや、人間の悪意や冷酷さを過小評価してはいけない。しかし、我々のほとんどは少なくとも慈愛への弱いバイアスを持っている。 もし無視できない程度の自己犠牲の要素が含まれる場合、例えばフリーレンジの卵がさらに20ペンス高くなった場合、悲しいことに売上は急激に落ちる。私 の主張は、もし―本当にもしもだが―、その道徳的不感性に関わる犠牲が存在しないか、または些細なものになる可能性があるならば、アボリショニスト・プロジェクトは生物世界の最も遠いところまで手を伸ばせるだろうということだ。


2007

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